精神障がいをかかえた親をもつ子どもの立場の方(今は大人になった方)や、障がいを抱えたご本人の体験をまとめたインタビューコラムです
目次
01. はじめに
・家族構成とショートストーリー
・お伝えしたいこと
・こんなタイプの子どもでした
・自分にとってのターニングポイント
02. わたしのストーリー(ロングバージョン)
03. それぞれの年代で 嬉しかったこと/しんどかったこと/こんなサポートがあったらよかった、のまとめ
01. はじめに
【家族構成とショートストーリー】
両親とひとりっこです。母が精神的に不安定でした。母方の祖母と母の折り合いが大変悪く、それも影響していたと思います。最近は精神科に通院していますが、私が子どもの頃には、受診や、精神的な病といったものはありえない、という雰囲気でした。
父は会社員で、何事もスルー、家族の絆といったことを考えない人でした。
私が小学校の高学年、自我が芽生えた頃から、母とは折り合いが悪くなりました。家の外からはわからなかったようですが、家の中では、感情の起伏が非常に激しく、潔癖症で、私の容姿のことや付き合う友人のことなど、暴言を吐かれていました。それがとてもつらくて、一時、醜形恐怖症[自分の容姿がものすごく気になって悩む状態]のようになったこともあります。受診を両親に相談しましたが、とりあってもらえませんでした。
中学3年のときに母は行方がわからなくなりました。当時、父は単身赴任しており(後に母はそこで暮らすことになります)、私は父方の祖母・叔母・従姉と暮らすようになりました。高校時代が一番楽な時期でした。私は、音楽や本や映画が好きで、心のより所でした。卒業後、大学へ進学し一人暮らしをするようになり、その後、就職しました。今、自立した生活を送っています。
両親とはその後も、いろいろあり、母が会社におしかけてきたり、怒鳴られたり、時間を問わず連絡してきたり・・・いろいろな専門家とも相談しました。やりたい仕事もあって会社に影響がでることは本当に困るし、精神的にきつい。対応に疲れきって、(父がそれに取り組むのでもない限り)自分ひとりでは母をどうにかすることはできないと思い、親とは離れる選択をしました。なにが正しいか、いろいろな意見があると思いますが。
現在進行形のストーリーですが、子どもの頃の自分へひとこと伝えるとすると─「大丈夫」自分が信じる道をいったらよいと思います。
【お伝えしたいこと】
「自分の人生を生きていい」
これは中高生へのメッセージです。まわりの大人の人は、そう信じて後押しして欲しいです。
家族との関係にしても、時間がたつと良くなるというわけでもない、どうにもならないこともあります。だけど、世界は広いし、いろんな生き方があります。正しいかはわからないし、孤独と隣り合わせかもしれないけど、自分の経験から、自分の人生を生きていいよと伝えたいです。
【こんなタイプの子どもでした】
- 好奇心が旺盛
- もの思いにふけるのが好きで、感情移入しやすい
- 自意識の強い、センシティブな子ども
【自分にとってのターニングポイント】
- 中3の夏、本屋さんで出会った1冊の本。
- 物語に自分を投影。「ひとりで強く生きている」とかっこよく見えた。
- 大学になったら家をでようと決めたこと。
02. 私の体験(ロングバージョン)
1. 家族構成、背景と家の中の様子
2. 思春期のころから
3. 高校時代から就職まで
4. 大人になってからのあれこれ
5. 力になったこと、ターニングポイント
6. 子どもの頃の自分へ
1.家族構成と家の中の様子
両親とひとりっこです。
母が精神的に不安定でした。母方の祖母と母の折り合いが大変悪く、それも影響していたと思います。母は母子家庭で育ち、祖母にネグレクト(育児放棄)やひどい扱いをうけてきたと言うし、祖母は母のことをわがままで悪い子だと言う。祖母が老人ホームに入った今でも断絶しています。
父は普通の家庭で育った人で、母にひどいことをされても、意見を言わない人。私よりも母を大切にしていたと思います。家の中は、しょっちゅうもめ事が起きていました。
母が父の会社に電話したり、学校に来てどうこうというのは少しあったけど、対象は限られていました。家事はまわっていたし、近所とのもめ事もなく、外からは家の尋常でないかんじはわからなかったと思います。家は閉じられた世界でした。
母は潔癖性で、電車のつり革を持ったら神経質に手を洗わされたりしました。私のことは基本的にすごくかわいがっていて、そして依存していたと思います。
2. 思春期のころから
小4くらいから、私は思春期、反抗期になり、ガラの悪いグループとも付き合うようになりました。その変化に母がついていけなかったのだと思います。「私のことをにらんだでしょ!」「なんであんな友達とつきあうの」などと言い(これは大人になってからも過去にさかのぼって続く)、さらに感情の起伏がはげしく、物を壊したりしました。
そして、自分の容姿をけなすようになり、これがすごくつらかったです。一時は、醜形恐怖症のような状態[自分の容姿がものすごく気になって悩む状態]になりました。両親に受診したいと相談しましたが、ありえないととりあってもらえませんでした。精神疾患なんてありえない、わがままだ、という思考でした。
母の様子をどうとらえていた?当時のきもちは?
子どものときには、「尋常ではない」ことはあっても、病気だとは・・・そこは関心が向きませんでした。困ってる感覚はあったし、しんどかったです。特に、自我が芽生えてから、不条理感、自分の価値観が否定される感覚、不自由感、圧迫感。
(自責感はありませんでした。母は、いつも、自分が祖母にされてきたことが悪い、そのせいだと言っていました。私にも、自分がされてきたように、周りに恥をかかせたり、ヒドイことをしてこいと命令することもありました。こういった母の言動が、自責感はないという私の受け止め方に、ひょっとしたら関係があるのかもしれません。)
誰かに話をしたこと?
中3くらいになると、仲のよい友達には話していたけど、相談というよりも軽いノリでした。学校の先生は信頼していませんでした。およそ、直感的に、そういう理解があるとは思えませんでした。容姿のことで悩んだときも、身近な人ではなくて完全に外の人に頼ることしか考えませんでした。
まわりの大人の人へ?
ガラの悪いグループでしたが、そこには居場所がありました。他の仲間に勉強を教えたり、歴史ものの知識を話したり。私は中学受験をしたので、その仲間とは学校が離れることもわかっていました。親や教師にそのグループのことを悪く言わないでほしかったです。たとえば、中3で髪を金髪にしたときも、私を注意するだけでなく、家庭のことにも思いをめぐらしてくれたらよかったかもと思います。
中学受験をするような中流階級の家だったこともあり、まわりからは気づくチャンスがなかったかもしれませんが、一般の家庭と違うと思ったら、家庭に何か警告というか・・・?
そもそも、祖母が母としての役割を担っていたら、親族が家庭の役割を担っていたら、父親が父としての役割を果たしていたら・・・という思いはあります。
3. 高校時代から就職まで
中3の夏、私との衝突を機に、母は家をでました。父は単身赴任で不在にしており、私は父方の祖母・叔母・従姉のもとで暮らし始めました。
母から見るとだらしない、という父方の家は、母方とは対照的に、ゆったり、楽観的、いい意味で放置、という家庭でした。
高校時代は、親と離れて、学校も楽しく、自分の好きな世界にのめりこみ、人生で一番ストレスが少なかった時期かもしれません。世界が広がって希望があって。
祖母の家からの通学、お弁当は持たずにコンビニ弁当、毎朝遅刻してファーストフード店で勉強・・・それでも、高校2、3年の教師は、何も言わずありがたかったです。深く話さなくても、なんとなく察していたと思います。卒業後は家をでる、絶対に浪人はしない、と決めていた自分はそのとおり進学し、卒業して就職して今があります。
4. 大人になってからのあれこれ
両親がやってくるようになり・・・会社に乗り込んできたり、毎週理不尽に怒鳴られたり、深夜に電話攻めにあったり。母に追い出された父が体調が悪いのに薬も取り上げられてやってきたり・・・。もう無理だと。いろんな専門家にも相談して、籍を抜く選択をしました。
母のことを嫌いというわけではないです。いつもネガティブというわけでもなく、祖母のことも知ってるので母がああなったのもわかるし、一概に恨んでいるわけではないです。根本的には(自分に対しての母の想いは)憎しみだけはないこともわかります。強制的な入院も対応の1つですが、それだけだとは思っていません。しかし、葛藤とかそういう問題ではなく、しんどい。ものすごく疲れる。体力的にも。話すのはとても緊張するしコワイ。昔のことも思い出す。いっしょにいてもしんどいだけだと感じるようになりました。自分ひとりだけで解決できる問題ではないとも考えていました。家族とはなれる選択もあると思いました。
うちの家は経済的な問題はなく、教育をうけて大学まで行って、自活できています。それは感謝していますし、倫理的、道徳的にどうなのか、いろんな意見があるとは思います。
この先、介護の問題も絡んでくる。恋人には伝えにくいとか、自分が家庭をもつことにどこか懐疑的になったり・・・・そういう思いもあります。
5. 力になったこと、ターニングポイント
最低限の教育、教養があって、外部の情報にアクセスできたこと。
海外の書籍や映画。もともと好きでしたし、はまるものがあったこと。ほんとに追いつめられているとき、すがれるものでした。家族の影響は確かにあると思うけど、それだけではない、別の世界がある。海外には別の文化がある!外の世界を見ようと思いました。
中3の夏、本屋さんで出会った1冊の本が自分のターニングポイントになりました。ひとりで強く生きている主人公がかっこよく見えました。物語に自分を投影し、大学になったら家を出ようと決めました。
きょうだいや親族はいないけど、友達には恵まれました。
経済的な問題がなかったこと。今も、経済的にも自立できています。
6. 子どもの頃の自分へ
「大丈夫」
「自立できるから大丈夫」「話を聞いてくれる人もあらわれるし、自分と同じような経験の人もいるし」「当時信じたことをそのままやったらいい」でしょうかね。
母は過去にとらわれつづけている。自分はそういう人にはなりたくない。過去よりも前を見たいと思います。
繰り返しになりますが、今、中高生へ「自分の人生を生きていい」と言いたいです。まわりの大人の人も、そう信じて後押しして欲しいです。
その中高生が大人になったときに伝えたいことは、自分の経験を特別視することはないし、人とかわかりあえないとか、自分は違うとか、そういうことにも縛られなくていいと思います。結局ひとりでは生きていけないと思います。
私のストーリーを最後まで読んでいただきありがとうございました。
03. それぞれの年代で 嬉しかったこと/しんどかったこと/こんなサポートがあったらよかった、のまとめ
小学生
・嬉しかったこと:小学校4年頃までについては、家族との生活や、友人と遊んだ時間も、どちらも楽しかったと思います。小学校高学年くらいからは、主に友人との時間。ガラの悪いエリアでも特にガラの悪い友人だったかも知れませんが、仲良くなったのはやはり気が合ったからだと思います。
・しんどかったこと:小学校高学年から母親との関係がしんどかったです。ただ、今よりもずっと私も幼く、母親との距離感も近かったですので、今とは異なる親子間のしんどさでした。
・こんなサポートがあったら:身近な大人として、小学校教師が少しでも家庭内に思いをめぐらして行動してくれたらよかったとは思います。
中学生
・嬉しかったこと:中学3年頃から夢中になれる世界(音楽、小説、サブカルチャー等)が見つかったことです。
・しんどかったこと:反抗期(思春期)のど真ん中ということもあり、小学校以上に母親との関係がしんどかったです。また自身の容姿にコンプレックスも感じていて、周囲の友人との関係でしんどいこともありました。
・こんなサポートがあったら:例えば兄弟など、身近に悩みを相談できる年上の人がいればよかったです。それ以上に、家庭内に思いめぐらし、学生の個性を尊重する教師がいたらよかったと思います。教師という立場から、私の両親にもある程度は意見を言えたという意味で、教師の方が大切だと思います。
高校生
・嬉しかったこと:中学生のところで書いたように、自分が夢中になれる世界があり、その世界を広げられたことです。
それ以降
・嬉しかったこと:まずは、経済的に自立できたこと。社会に出て、「世界の広さ」を感じられたこと。世の中、色々な人間がいて色々な考えがあるというシンプルな話です。
・しんどかったこと:親子間の問題は解決していないですし、父親の体調不良も重なり、状況は悪化していると思います。母親の症状も年々悪化傾向にあり、会社に押しかけるなど、問題が大きくなっているのが実情です。あと仮に問題がこのまま落ち着いたとしても、やはり「記憶(過去)」は残ります。
・こんなサポートがあったら:第三者がかかわることです。民間に担い手がいませんので、行政のサポートが必要だと思います。入院までいかなくとも、最低限、第三者の適切な介入を望みます。本人に病識がなく、父親やその他親族のサポートが得られない状況でこの問題を解決するのは不可能です。離れる(逃げる)のが現時点の最善策で、そのためにも経済的自立が不可欠だと感じています。(人生に全く絶望していませんが、問題は未解決というのもまた事実です。)
※本コラムは、Tさんへのインタビューをもとに、ぷるすあるはがコラムを作成し、Tさんの同意を得て掲載しています。個人が特定されないように、本コラムの主旨に反しない範囲で、一部事実関係を変えて記載している箇所があります。