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Yさん[40代・女性]のストーリー 親が精神障がいの子どもの立場から

Yさん[40代・女性]のストーリー 親が精神障がいの子どもの立場から
2015年8月31日 pulusu

精神障がいをかかえた親をもつ子どもの立場の方(今は大人になった方)や、障がいを抱えたご本人の体験をまとめたインタビューコラムです

目次


01. はじめに

・家族構成とショートストーリー
・こんなことをお伝えしたいです
・私はこんなタイプの子どもでした
・自分にとってのターニングポイント

02. わたしのストーリー(ロングバージョン)


 

01 はじめに

 

【家族構成とショートストーリー】

精神的に不安定な母。自営業の父。兄・姉の5人家族でした。

母の不安定さというのは、いつも、「誰かが悪口を言っている」など被害的なことを言っていました。結局一度も受診することなく、調子は悪くなったり少し落ち着いたりを繰り返しながら今にいたります。母の具合が一番悪かったのは私が中学生の頃。私が一番影響を受けていたのは小学校低学年の頃。母の調子に一喜一憂したり、母の暴力があったり、家のことがまわらないので子どもが家事をしたり、といったことです。高校卒業後、実家をでて専門学校へ進み、その後、就職。個性的なタイプで?、今でもいろいろな工夫をしながら生きています。

 

【こんなことをお伝えしたいです】

・生活の様子を想像してください
・身近にそういう子どもがいることをリアルに感じてください
・病気の本人や、家庭を責めないで欲しいです
・いろんなことがあっても、それでも生活しているたくましさのようなものも知ってください

 

【私はこんなタイプの子どもでした】

・運動が好き・得意
・強迫的なところがある、こだわりが強い、感覚が過敏
・母の病状に一喜一憂して、兄弟の中では一番ふりまわされてました(なお、上の兄は我が道を行くタイプ。姉は、しっかり者で大人しく、自分のペースで生きていくタイプ。三者三様でした。)

 

【自分にとってのターニングポイント】

・希望する高校に行けたこと

・家を出る選択

 

ライン A

02 わたしのストーリー(ロングバージョン)

1 家族構成と小学校にあがる前の記憶より

2 小学校時代の家の様子

3 小学校生活

4 中学生時代

5 高校時代

6 子どもの頃に周りの大人の人にして欲しかったこと


 

 

1 家族構成と小学校にあがる前の記憶より

私の生まれ育った家族は、両親と、兄と姉、そして私の5人家族です。家族想いだけど仕事がとても忙しかった父、精神的に不安定な母。障害のある年の離れた兄。父から聞いたところによると、母は、上の兄を出産後から精神に変調をきたし、障害がわかった頃から、さらに不安定になっていったとのことです。

もう40年以上前の当時、障害に対する偏見は今よりも強く、障害をもつ子を生んだ事で、母は祖父母に受け入れてもらえず、子育てで頼ることもできませんでした。また、幼稚園の入園を断られ転居せざるを得なかったり、小学校は付き添いでの登校を求められたりと、随分苦労をしたそうです。親戚や地域からの「孤立」が、母の不安的に拍車をかけたのだと思います。母の不安定さというのは、いつも被害的で、周りの人が「悪口を言ってる」といったことを言っていたように思います。

私は、子どもながらに、母の大変さを敏感に感じ、絶対にワガママを言ってはいけない、と感じていました。

 

2 小学校時代の家の様子

上の兄は、中学生になった頃から、いわゆる反抗期で家で暴れるようになりました。

そして、兄の反抗期と比例するように、母はどんどん不安定になり、その矛先が私に向かうようになりました。毎日のように暴力を受けるようになりました。怒られないように、母の機嫌を損ねないように、と細心の注意を払っていましたが、私の言動とは無関係に暴力が始まり、何の脈絡もなく突然終わりました。

今思うと、母には何か妄想のようなものがあって、自分がその対象になっていたのかもしれないと思いますが、子どもだった私にとって、病気の症状かもしれないといった発想は一切ありませんでした。そもそも、こころの病気というものが存在することを知る機会もありませんでした。

大変なことは、いつも、父が不在のときに起きました。私から話すことはありませんでしたし、家の中で起きていたことを父がどれくらい知っていたかわかりません。

学校から帰宅すると、普段キレイ好きの母が、物を盗まれた!と泥棒に入られたように家中をひくり返して探していたこともありました。心配だから早く帰りたいような、でも帰りたくないような・・・家に帰ってあたたかい安心できる家ではありませんでした。

夜は何かが起きても逃げられるように、パジャマは着ないで、枕元にスニーカーを置いて寝ていました。

また、母は調子が悪いと、全く外出ができず、家事もできません。私が小学校低学年の頃から、子どもたちが家事を担っていました。天気がよければ、洗濯日和だと思うし、悪ければ洗濯できなくて困ったり・・・買い物や仕分け、その日の献立を考えることも大変だった記憶があります。

 

3 小学校生活

学校には休まずに通っていました。家にいるよりはしんどくなかったのかもしれません。

日々困ることには、例えば学校との連絡帳のやりとりがありました。ハンコは自分で押して出す。迷ったら姉に聞いて対処する。持ちものを準備してもらうこともありませんから、忘れ物も多かったです。

小学校3年生の頃から、学校で先生の前では一切話をしなくなりました(場面かん黙です)。ある日、「自分の名前の由来をきいて発表する」という宿題がでました。しかし、そのとき、家の中でそんな和やかな会話ができる雰囲気ではなく、宿題ができず、答えられなかったことがきっかけでした。「母のことや兄のこと、話してはいけないことをたくさん抱えている」という感覚がいつもありました。もともと発声も得意ではなかったので、宿題のエピソードがひとつのきっかけで、話さない、話せない、の両方の感覚だったと思います。

★その頃の自分が考えていたこと

学校でも、家でも、いつも「うまくやらなきゃ」と思っていたように思います。周りの大人が期待する子ども像と重ねて、自分のとるべき言動をいつも考えていました。家でも、母に対してどううまく立ちふるまうか、「うまくやらなきゃ」といつも思っていました。

母の様子に混乱していましたし、まわりの大人の人を見ると、「この人は母を傷つけないか?」と疑い、「不安定な母を自分が守る」といった使命感を持っていたように思います。母が不安定になると、「私の言動がよくなかったのではないか」とどこかで自分と結びつけて考えていました。

「かわいそう」「かわいそうな子」と思われることがすごく嫌で、大人は信用できないと思っていました。

そして、だれかにそう言われていたわけではないのですが、家の中のことを話すと「なにかこわいこと」が起きるかもしれない…と。いろんな大変な状況でしたが、そもそも「相談する」なんていう発想が全くなかったです。誰かに言ったところで、なにかが好転するイメージも持てませんでしたし、「困っている」という感覚もなかったと思います。あるいは、生活をまわしていくことに精一杯で、困りごとが次から次にやってきて、それが日常というかんじだったかもしれません。

★嬉しかった周りのかかわり

・姉が「Yは悪くないよ」と言ってくれたこと。母の暴力の対象は兄弟の中で自分だけでした。「やはりなにか自分にいけないことがあったんじゃないか」と落ち込んだりしていると、「Yはなんにも悪くない」と言ってくれました。

・近くの親戚。おばさんが私のことを気にかけてくれていました。おそらく、うちの日常生活が上手くまわっていないことを感じていたんだと思います。母の妄想の対象になることもあって、いつも関われたわけではないのですが、行き来できるときは、髪をキレイに洗ってくれたり、結ってくれりして、とても嬉しかったです。おかずを持ってきてくれることもありました。

・会社のおじちゃん。よく声をかけてくれました。父が自分を大切に思ってくれている、ことが伝わってくるような声かけが嬉しかったです。

・学校の先生。決して返事をしない自分に対して、毎朝「おはよう」と変わらず声をかけてくれて、そういう対応がありがたかったです。高学年くらいになったら、ちょっと先生のことを信頼して、話してもいいかな(家の中のこと以外は)という気にもなっていたのですが…結局話さないままに卒業になりました。それでも、話すことを強いられなかったことで安心でした。

・友だちの存在。特に、高学年くらいになると、度胸試しが流行っていて、しゃべらないけど運動ができたので、仲間の中でのポジションを確立していけたと思います。

・塾。少し離れた電車で通う塾に通っていて、そこは、自分の家のことや学校でのことを知らない場所、勉強を教えてくれるだけのドライな場所で安心できました。

・自分一人で過ごす時間。いろんな空想をふくらませていました。

今ふりかえってみて、家の中で起きる事がダイナミックすぎて、なにか特別なことではない、日常の小さなエピソードの積み重ねが、自分がなんとか生き抜いていける力になっていなように思います。

 

4 中学生時代

中学生になったら学校でも話をするようになりました。授業が教科担任制にかわり、クラスの関係がドライになったことも楽に感じました。運動部に入り、ストイックに部活に打ちこむようになりました。

家の中では大きな変化が2つ。

ひとつは、上の兄が大学進学し、家を出てすっかり落ちついたこと。2つめは、祖母との同居。兄が落ち着き、母も落ち着いたのも束の間、認知症の祖母と同居することになり、施設入所までの約半年間、これまでで母が最も不安定な時期となりました。病気の急性期ともよべるような、滅裂な行動などがみられました。

(父と兄姉は、精神科の病院へ相談に行ったようですが、本人が来ないとということで、結局受診にはつながりませんでした。今であれば、家族だけでも保健所へ相談に、という状況だと思いますが、当時はそんな情報もなかったのかもしれません。)

家の中のことは、一切、外からは気づかれないようにしていました。

当時、ハードな部活をこなしながら、家の中をなんとかまわすために、料理や買い物、洗濯・・・そういう日々のことがとにかく大変でした。

それでも、ちょっぴり信頼してもいいのかな、と思える先生もいました。結局相談することはありませんでしたが。その先生の授業のときには、忘れ物をすると、出席簿の角っこで、「コツン」と頭を叩かれます。家の中では、自分がやったことと母の反応というのが全く繋がらない、わからない中で生活していたので、「忘れ物をする→コツンとたたかれる」「忘れ物をする→コツンとたたかれる」そのライブなやりとりが、怒られているのにどこか安心できることだったように思います。

小学校のときの先生は毎回変わらずに「おはよう」と声をかけてくれる、そういう小さな変わらない対応の積み重ねが実は大切だったと思います。

 

5 高校時代

高校は部活に打ち込める学校を選択し、部活にストイックに励みました。学食がある高校で、お昼ご飯の心配もなくなりました。部活が終わってからはアルバイトをしたり。中学、高校と、だんだん自分の世界が広がり、母の病状にまきこまれることも少なくなっていったように思います。

そして卒業して、家をでる選択をしました。手に職をつけて早めに自活したいと思い、資格をとれる学校にしました。母を置いてでることに不安があった私を後押ししてくれたのは姉でした。距離ができたことで、母との関係も少し変わりました。母にとってもよかったように思います。

そして・・・いろいろなことがありながら、いろんな工夫を続けながら、今があります。

 

6 子どもの頃に周りの大人の人にして欲しかったこと

これは難しいです。私は他の人のことを信用していなかったと思います。実際に、大ケガをしたこともありますが、聞かれても母がとは絶対に言わなかったのではないかと思います。手を差し伸べられても、ちゅうちょしていたと思います。

心理的なサポートには抵抗感があった私ですが、もしかしたら、生活のサポートをしてもらえたら、助かったかもしれないと思います。

中学3年生の受験ときには、進学に関する情報が入ってこなかったので、そういった情報もありがたかったと思います。

母に対しては、「責めずに」「母の応援」をするようなスタンスで接してもらえたら、信頼してもいいかなと思えたかもしれません。

最後に周りの大人の方へのお願いです。

子どもが、自分の気持ちや、何か話しにくいことを話してくれたら、「よく話してくれたね」「話してくれてありがとう」とまずその勇気をねぎらってください。

話した先がどうなるのかを子どもは心配しているかもしれません。誠実に、子どもと一緒に考えてとりくんでください。


 

※本コラムは、Yさんへのインタビューをもとに、ぷるすあるはがコラムを作成し、Yさんの同意を得て掲載しています。個人が特定されないように、本コラムの主旨に反しない範囲で、一部事実関係を変えて記載している箇所があります。

ライン B

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